ちゃだろぐ

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教育

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「スポーツ特待制度」の何が問題なの?

日本高校野球連盟が学生野球憲章に違反するとされる「スポーツ特待制度」の実態調査を行い、昨日までに334校が違反していることが判明したんだそうな。高野連は憲章を堅持すると言っているが、問題は「スポーツ特待制度」ではなくて、時代にそぐわない非合理な憲章にいつまでもこだわっている高野連にあると考える。

学生の持つ才能を引き出して伸ばしてやることこそが教育機関の最も重要な役割であることは言うまでもないが、そのために優れた才能を認め、より恵まれた環境や条件を提供することは、まったく合理的だ。スポーツや芸術を極めようと思えば、金が掛かるのは当然だ。より恵まれた環境を求めて遠方の高校に通いたいこともあるだろうし、そのために下宿をしなくてはならないかもしれない。経済的には負担が増す。経済的には豊かでない家庭の子の中にもスポーツの才能を持つ学生はたくさんいるはずで、そういった子達に「学費のことは心配するな」と門戸を開く、「スポーツ特待制度」の何が問題なんだ?奨学金と同じじゃないか。

「スポーツ特待制度」を止めさせることで、スポーツの才能に恵まれた子達の教育の機会を奪うことになるが、それでよいのか?大学入試でも私学では一芸入試が定着して久しいが、まったく時代に逆行する判断だ。

運動の得意な子が野球からサッカーに流れていてリトルリーグに入ってくる子供が減っていると聞くが、高野連が方針を変更しなければ、スポーツの才能に恵まれた子達の「野球離れ」が加速するだろう。元締めがプレーヤーに対して野球の魅力を増す努力を放棄しようというのだから、いろいろな競技の中での野球の地盤沈下は避けられまい。関係者にはお気の毒なことである。

2007-05-03_13:04-tyada-C(0)-T(0)

必修科目の未履修問題

馬脚を現すとは、まさにこのこと。教育指導要領の希薄化も問題だが、現場の教師や校長は、高校生のうちに教養として歴史を履修することの重要性を理解していないわけだ。受験に必要ない教科・科目は勉強しないという近視眼的な生徒に対して、逆に教養の重要性を説き、生徒の視野を広げてやることが教師の務めだろうに、それどころかカリキュラムからはずしてしまうなんて、教師の器量を疑う。

くれぐれも「教師は教壇で話をするが生徒は自習する」なんて形だけの授業で、恥の上塗りをされないことですな。

2006-10-29_22:38-tyada-C(7)-T(0)

絶対評価は客観評価か?

私が小中学校に通っていた当時は、児童生徒の学力を各評価が一定の割合になるように5段階に評価する相対評価が取られていた。新指導要領の導入に伴い、評価方法が絶対評価に変更された。私の娘の通う小学校では、教科毎に複数の評価項目が挙げられ、それぞれについて「よくできる」「できる」「がんばろう」という3段階で評価される。

相対評価ではその生徒の学力を母集団の学力分布と比較して評価する。絶対評価では、学習指導要領の示す目標と比較して、その達成度を評価する。どちらも客観的な評価でなくてはならないのは当然だ。相対評価の客観性は比較的証明しやすいが、絶対評価は本当に客観評価になっているのか?

絶対評価が客観性を持つには、

  • 客観的に評価可能な到達目標が設定され
  • その目標が普遍的に適用されること

が求められる。

ところが、娘の小学校ではカリキュラムや到達目標が保護者に示されたことは入学後4年間で一度もない。年度や学期の始めにはその期に取り組む単元や到達目標が示されてもよさそうなものだし、新しい重要な単元に入る際には月次の学級案内に記されてもよさそうなものだが、イベントに関する案内はあっても、学習内容に関する情報が提供されることはない。本末転倒である。

また、学期末や年度末に示された通知簿の内容について、到達目標と児童・生徒の実力との間にどのような乖離があり、成績にどのように反映されているのか、示されることもない。年度末の面談がないから、その機会すら、ないのだ。これでは客観的な到達目標が設定されているかどうか、疑われても仕方がない。実際には主観評価に陥っているんじゃないの?と考えてしまう。通知簿の内容について、本当に説明可能なのだろうか?

学習指導要領を保護者が自ら入手して内容を理解すればよいのかもしれないが、指導要領に従ってカリキュラムを設定するのは学校の仕事だ。学校にはその内容についての説明責任があると思うのですが…。

2006-05-18_11:30-tyada-C(2)-T(0)

不審者の特徴に騙されないために

広島と栃木の痛ましい事件を受けて、当地区の小学校でも頻繁に不審者情報が配布されるようになった。

最近配られた不審者情報には、「トマトを持った不審者に『トマトやろか』と声を掛けられた」というものがあった。「なんやこれ〜」というのが受け取った保護者の大半の感想のようだが、こういうのには気をつける必要があると思う。

まず、トマトの印象が強すぎて声を掛けられた児童自身がトマト以外の特徴を覚えていないこと。また、配布された不審者情報を受け取った保護者や児童たちも、「トマト〜!?」と馬鹿にしつつもトマトだけが強く印象付けられてしまうこと。もし本当にこの人物が何らかの悪意を持った人であれば、トマトを実に上手にカムフラージュに利用していることになる。次にこの人物が出現したときにバナナを持っていたら、誰からも警戒されずに済んでしまう。

当事者の児童がトマトだけに気を取られていたのは仕方のないことだが、不審者情報として伝えるのであればトマトがカムフラージュである可能性にも注意を喚起すべきではないのか?

心優しいトマト農家の人が気の毒にも勘違いされただけ、であればよいのですが。

2005-12-23_00:21-tyada-C(0)-T(0)

敬語の変化

以前、ファミレス敬語やコンビニ敬語について述べ、対応に苦慮するケースを挙げた。一方、言葉は時代により変化するものだから、という理由でファミレス敬語やコンビニ敬語を擁護する意見もあるようだ。これは、日本語の乱れが指摘されるたびに持ち出される意見だ。

しかし、考えてみて欲しい。会話は言葉を発する側だけで成立するものではないのだ。発した言葉を受け取る側がいて、初めて会話が成立する。ファミレス敬語やコンビニ敬語については、言葉を発する側に何かしら敬語を使おうという意図はあるようなのだが、相手に理解されない表現では相手に敬意が伝わらない。よろず相手に意思を伝えるには、言葉を発する側と受け手の間に言語表現に関する共通理解が必要なのは当然だ。言葉を発する側の都合だけで表現が変化していっていいとは、言えまい。

ましてや、敬語表現なのだ。相手に敬意を伝えたいなら、相手に確実に伝わる表現を勉強するのがあるべき姿勢だろう。なにやら尋常でない敬語めいた表現してやるから、受け取る側がそこから相手の自分に対する敬意を汲み取れ、というのでは、不遜というものである。

対応に苦慮する例としてあげた

については、問い掛けには答えなくてはならないから返事をするが、私はこの表現を受け入れているわけではない。「ご」と「でしょうか」「ですか」などの言葉が含まれていることからどうやら敬語らしいと推測をするが、その他の部分は商品に対する尊敬・謙譲表現としか思えないのだ。しかし返事をすれば、店員さんの側では受け入れられた・通じたとして定着していくんだろうなと思うと、同じような場面に出くわすたびに困惑する。

ファミレス敬語・コンビニ敬語は、敬語表現に慣れていない人たちがアルバイトなどで接客に従事する際、何か敬語を使わなくてはならない必要に迫られて発生してきたとする説を何かで読んだことがある。それなら何も新しい表現を開発してこんなに複雑で不自由な表現を操らなくても、それより遥かに簡単で、広く受け入れられ間違いなく相手に伝わる簡潔で洗練された尊敬・謙譲表現があるのだから、ちょっと勉強されればよいのにと残念に思う。

2005-12-15_00:45-tyada-C(0)-T(0)

名刺

6歳になるウチの娘がテーブルにおいてあった名刺を見てあれこれ尋ねてくるので「『名刺』って言うんだよ」と教えてやると、「『こーゆーものです』ってやるやつ?」とのたまった。どこで見たんだろう。子供の観察力には感心する。

2005-10-15_12:16-tyada-C(0)-T(0)

夏休みの自由研究で、blogノススメ

ウチの小4の娘が作っているやどかりについてのブログもそうだが、今年の夏休みの自由研究は blog を使用したものが激増するのではないかと考える。夏休みの絵日記の代替目的には当然ながらぴったりだし、ある程度継続性を持った自由研究に、好適だと思う。blog入門としても、ちょうどよい機会ではないか。

来夏には、同じテーマを選んだ小学生の間でトラックバックを送り合って、コンテンツを共用するといった動きも加速するだろう。その中で、コンテンツの盗用については厳しく目を光らせ、知的所有権についての意識を高めていく必要がある。

2005-08-30_12:49-tyada-C(7)-T(0)

「袋、ご一緒させていただいてよろしいですか」?

コンビニで温かいものと冷たいものを購入すると、「袋、ご一緒させていただいてよろしいですか?」と聞かれる。大変違和感を感じる。

「ご一緒する」は一緒になる相手に対してへりくだる謙譲語だから、例えば相席させてもらうときに、既に座っている人に対して「ご一緒させていただいてよろしいですか」と使うのが適切な表現だ。

コンビニの例の場合、袋に一緒に入るのは、購入した商品だ。冷たい緑茶が温かい弁当に「袋、ご一緒させていただいていいですか?」と問うている図が頭に浮かんで仕方がない。コンビニ店員が商品に愛情を注ぐあまりに擬人化してしまうのは分からないでもない(?)が、客に同意を求められても返事のしようがない。

「(温かいものと冷たいものを)一緒の袋に入れさせていただいてよろしいですか?」でいいじゃない。袋に「入れる」を単純に謙譲表現にすればよいものを、「ご一緒する」を持ち出すから話がややこしくなる。なんだか、敬語を使わなくてはいけないという強迫観念に駆られるあまり、主語と述語の関係すら分からなくなってしまっているかのようで、気の毒に感じる。

今度から、「一緒の袋に入れていただいていいですよ」と返してあげることにしよう。

2005-05-14_19:44-tyada-C(0)-T(0)

接客敬語(ファミレス敬語・コンビニ敬語)

ファミレスやコンビニで店員から話し掛けられる言葉に、とても違和感を感じることが多い。代表例としては、以下のような例が上げられることが多い。
「こちらカレーライスになります。
「1000円からお預かりします。
ファミレス敬語やコンビニ敬語というのだそうだ。

他に、私が気になって仕方がない表現がある。
「ご注文の品は全てお揃いでしょうか?
自分の店が提供した商品に対して、「お揃い」とは…。これでは、料理を敬ってしまっているではないか。
例えば、「皆様、お揃いでしょうか?お席にご案内します。」などと、客に対して使うのが適切な敬語表現だ。

「…になります」「…からお預かりします」では話し掛けられるだけだから黙って聞いていればいいが、「お揃いでしょうか」では返事をしなくてはならないため、「はい」と答えると相手の表現も含めて肯定・許容しているようで、違和感どころか、非常に抵抗を感じる。かといって、注文の品が揃っていないわけではないから「いいえ」とも言えず…。

2005-05-12_12:58-tyada-C(63)-T(0)

小学生の42%が「天動説」

今日のNHK「おはよう日本」でのニュース。小学生の42%が地球の公転を理解していないらしい。こちらは、毎日新聞の記事

月の満ち欠けに付いては、なんと37%の小学生が月食と勘違いしているとのこと。

中世に逆戻りだね。

2004-09-21_07:39-tyada-C(0)-T(0)
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